FC2ブログ
2013 05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30. »  2013 07

世界記憶遺産に出会いたい

kage

2013/06/24 (Mon)

筑豊旅行の続きです。

嘉穂劇場の次の目的地に急ごうとする夫に私は待ったを掛けました。
「炭坑跡を見に行こうよ。」
伊藤伝衛門邸の案内の人に、3年ほど前に坑口が見つかった炭坑跡があると聞いていたのです。
夫は「宿泊は北九州市だから、急がないと目的のものをしっかり見られないよ。」といいました。
「私は炭鉱の町を感じ取りにここに来たの。せっかく本物の跡を見せてもらえるというのに・・・」
と主張を取り下げませんでした。

「もう、仕方ないなあ・・・」

幸いなことに原口鉱業大門坑の跡は飯塚市から次の目的地、田川市に向かう道中にありました。

頂いた簡単な地図と手書きの小さな看板を頼りに小高い丘の上に登って行きました。
その中腹にテントが張ってあり、私たちは車を降りてみました。その日は午前中にウォーキングの
イベントがあったらしく、スタッフの人たちが片づけをしているところでした。

イベントの様子はココ→ 

残っていたお茶やお菓子をチャッカリ頂きながら大門坑のことについて説明していただき、
また、パンフレットもいただきました。
この日でなかったら、どこを見ればよいのかも解らなかったかもしれません。ラッキーでした。

大門坑は明治29年ごろ開坑したようですが、戦後本格的に採掘された比較的新しい炭坑で、
昭和32年に原口鉱業によって買収され、昭和39年に閉鎖されています。
閉山直後の炭坑施設群がほぼそのまま残っていたので、地元の人たちは産業遺跡として保存しようと
運動しているそうです。

親切な人々に別れを告げ、緩やかな斜面を登って坑口あたりに行ってみました。
その時間帯はもう誰もいなくて私たちの貸切状態。静寂の中にむき出しのコンクリートの造作物。

主坑道、副坑道、選炭機、貯炭場、積込場などの跡が並び、
さらに少し離れて巻揚機の台座が高くそびえていました。

炭鉱営業中はどんな喧騒があったのでしょうか?

怒声が飛び交い、笑い声が響き、坑内の音は漏れ聞こえていたのでしょうか?
昭和30年代だと、トラックの音や排ガスもすごかっただろうし・・・思いを巡らす私たちを、
すぐそばに積み上げられているボタの山が見守っているようでした。



さあ、最終目的地へ急がなければ・・・

今回の旅の最終目的地は田川市石炭・歴史博物館です。
平成筑豊鉄道の田川伊田駅のほど近く丘の上にそのレンガ色の建物はありました。

急いでいるくせに、「まずはコーヒー」と売店兼喫茶室に入ると、これも懐かしい黒ダイヤという
お菓子が売られていました。そうです。これも時々先輩のお土産でした。
あんこをダイヤ型に固めたきんつばを巨大化したようなお菓子です。
石炭はお金を産み出す価値あるものとして『黒いダイヤ』と呼ばれていたことをもじった命名です。
帰りに買おうと思っていたのに残念なことに買いそびれてしまいました。

さて、本筋にもどり、一階の展示室に。

田川伊田坑の模型や採掘現場のジオラマ、道具、機械類、運搬手段などを歴史の流れとともに
わかりやすく展示されていました。狭い坑道に這いつくばるようにして石炭を掘る裸の男性、
掘り出した石炭を運ぶやはり上半身裸の女性、暗くて暑くて、そしていつ落盤や有毒ガスが
発生するかわからない危険と背中合わせの中のきつい仕事・・・

戦後は機械化も進んだとは思いますが、こうして掘り出された石炭を使って日本は産業を近代化し、
戦後の奇跡的な高度成長を成し遂げたのです。
筑豊の石炭も遠賀川からの船や鉄道を使って日本中に運ばれ、また、かつては日本一の生産高を
誇った八幡製鉄所(北九州市)の高炉の燃料として欠かせないものでした。

石炭は人々の生活の中にも根付いていました。私の通った小学校は各教室に大きな石炭ストーブが
ありました。私の家は昭和40年代後半まで石炭で風呂を沸かしていました。そんなに身近だった
石炭でしたが、当時はそこにある人々の汗や涙の存在に気が付く由(よし)もありませんでした。


そう、記憶になかった記憶に出会うために、私たちはユネスコの世界記憶遺産に登録された
「山本作兵衛コレクション」が展示されている建物の二階へと上って行きました。

                           


                                      つづく・・・


嘉穂劇場見学

kage

2013/06/08 (Sat)

連休中の筑豊旅行の続きです。

大学在学時代、筑豊出身の友達と先輩は筑豊のことをとても愛していたのに筑豊のことを
あまり自慢しませんでした。

映画やテレビドラマで紹介される炭鉱のイメージは男臭く荒々しい、
ご本人たちいわく「ガラが悪い、喧嘩っ早い・・・」
しかも、相次ぐ閉山で地域自体が不景気で失業者にあふれているとのことでした。
高度成長は終焉を迎えていましたが、国民のほとんどが中流意識を持っていた中で、
筑豊は既に長い不況の中にあったのです。

でも、彼らは英彦山(ひこさん)と嘉穂(かほ)劇場のことを話すときはいつも笑顔でした。

「英彦山はいいよ。sunちゃん(私の学生時代のニックネーム)も夏休みに英彦山に登りに
おいでよ。今、メンバーが5人位集まったよ。」と誘われたのに登らなかったな~。
修験道の山と聞き、怖じ気づいていたのでしょうか?

「嘉穂劇場はいいよ。」
こっちには「行ってみたいな~。」と答えていたのに、ここにも行きませんでした。
やっぱり学生の私には遠い場所だったのでしょう。

平成15年7月の豪雨で遠賀川(おんががわ・一級河川)が氾濫、
嘉穂劇場も大きなダメージを受けました。
それがニュースで流されたとき、私はショックを受けました。行きたいといってからずいぶんと
時間が経っているのに、とうとう行けなかった、いや、行かなかったことに・・・

そのまま取り壊されるだろうと思っていましたが、すぐにびっくり嬉しいニュース、
津川雅彦さんの呼びかけに、明石家さんまさんや中村玉緒さん、中村勘九郎さん等、多くの
芸能人が呼応し、チャリティイベントやカンパで集まった浄財で修復されることになったのです。

それからまた10年・・・行かないまま・・・本当に尻の重い人間です。


嘉穂劇場は旧伊藤伝右衛門邸と同様、飯塚市にあります。
バスセンターがある市の中心通りを抜けて、おそらくは飲み屋街の一番奥、遠賀川に突き当たる
ところに創業昭和6年(1931年)の木造2階建ての芝居小屋はたっています。今も現役です。

講演の無い日は300円で内部の見学が自由にできるということで、劇場そのものに興味を
持って訪ねた私たちはある意味ラッキー、ゆったりと隅々まで見ることができました。

中に通されてその美しさに私は息をのみました。華美な装飾があるわけではないのです・・・
ただただシンプル、直線だけで構成された人に媚びない大空間。

間口10間(18,2m)奥行9間(16.4m)の1階は畳張り、一本の柱さえありません。
木造でこの大空間ということはとても良い木材と腕の良い職人が集まらないとできなかった
でしょう。当時の炭鉱町の隆盛がしのばれるようです。

床は緩やかに勾配し、後ろの席の人が見やすくなっています。4~6人の人が座る枡(ます)に
仕切られていて、その周りの桟敷席や2階席も合わせると1200人もの人が入るということでした。


舞台に登ってみると意外と広く、円形に回り舞台が切られていました。
今でも10人の人力で動く舞台・・80年たってもまだ回る舞台・・反りやたわみもありません。

係りの人は建物の内部に案内してくれただけで、私たちを入れて数組いた見学者を寡黙に見守って
おられましたが、いろいろ質問するととてもうれしそうに、でも静かにそして詳しく説明を
してくれました。

かつて筑豊には大小50ほどの芝居小屋があったがテレビの普及や相次ぐ炭抗の閉山で次々に
姿を消していったこと

嘉穂劇場は伊藤英子を代表とする家族経営であったが、経営状態は極めて厳しく、耐震基準を満たす
工事もできないので閉めてしまいたかった。豪雨で建物が被災した時、これでやめることができると
ホッとしたほど・・・。

しかし集まった浄財で復元され、ついでに耐震工事までできて、マスコミに取り上げられた
おかげで全国から観劇客が来るようになって、経営も安定したこと等・・・

飯塚市の有形文化財に登録されていたので、壊れた建物の木材を一本一本外して洗い、
乾燥させて再利用するという修復方法がとられたとのこと、
基礎強化のために入れられた新しい木材は「平成補強」と刻印されているとのこと・・・
そして、復元後の平成18年、国の有形文化財として登録されました。

係りの人が「奈落に降りることもできますよ」と教えてくれて、私たちは舞台下手(しもて)奥から
奈落の底に降りて行きました。回り舞台の下にはそれを回すための押し棒が付いていて、
それを横目で見ながら前方へ進むと客席の下は腰をかがめて通らなければならない高さ、
古い木材の間に真新しい木材、一本一本「平成補強」の刻印がなされていました。

さらに進むと、これまでに上演された演目のポスターのレプリカが貼ってありました。親たちから
聞いたことのある銀幕のスターの名前や私たちにとっても懐かしい俳優や歌手の写真等を発見し、
最近のものではワハハ本舗公演の時の久本雅美さんや柴田理恵さんのサインなども見つけて・・・

あ~楽しかった。奈落から出て花道を(心の中は)役者気分で舞台に戻り、最後に枡席や桟敷席に
座って観劇している自分たちを妄想、満席の劇場はどんな雰囲気なんだろう・・・
炭鉱の全盛期の頃はどんな賑わいだったのだろう・・・。

5月25日には桂文枝襲名披露(終わってからの情報で申し訳ないです。)、9月には
全国座長大会がありますよと係りの人に勧められ、ああ、人が一杯の劇場の雰囲気も味わって
みたいと思いましたが・・・おそらくはまた何年も来ないかも知れない・・・

私たちは後ろ髪をひかれる思いで劇場を後にしました。

筑豊のことをいろいろと教えてくれた先輩のMさんと級友のYさん、
私、やっと嘉穂劇場に行ってきましたよ。本当に心を揺さぶる素敵な劇場でした。  

嘉穂劇場ホームページ