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私の父の背中

kage

2015/04/20 (Mon)

やっとブログをやるゆとりができたなと思えたのは束の間(つかのま)、
前回更新の翌日にまた、父が入院になりました。

今回は極々軽い肺炎、熱も微熱程度で4~5日で退院の予定でした。
しかし、その後、様態の変化やアクシデントが続き、2回の転院を経て、3か月後に
帰らぬ人となりました。

四十九日もとうに過ぎましたが、母まで入院する事態となり、落ち着かない日々でした。

この一連のことについては、心の整理がついてから書こうと思います。



今回はこの前のテーマの続き、親の背中について書きます。


私の父が見せた背中についてです。

今までこのブログに登場する機会があまり無かった父、私の大学進学に反対したことと、
タクシー利用が多かったことしか書いていません。 ・・・これじゃ可哀想だよね、

私が彼から教えてもらったことやその背中から学んだこと、そしてそのことに感謝していることも
生きているうちに伝えたいと思っていました。ーーー残念ーーーー
祖母が逝ったときにもあんなに残念な思いをしたのにまた後悔の残る別れとなりました。


父は貧しい家に生まれ、若いときから働いて、家計を助けていました。
その後、父親(私の祖父)が無くなってからはまさに親代わり、唯一の兄は病弱で、6人もいる弟や
妹達は彼を頼りにしていました。

下の3人は独り立ちするまでは我が家で同居、
その後も仕事のこと、結婚のこと、お金のことと何かあればすぐに相談に来ていました。

また、父の友人たちもいろいろな相談に来ていたのを覚えています。

お金が無い友人が市会議員に立候補した時は選挙事務所の責任者になって身銭を切って
応援していました。

新しくできた戸建ての団地は400世帯もありましたが、その自治会の立ち上げやその後の役員。
市との交渉事ではいつも先頭に立っていました。

バスを10台ほど貸し切って町内総出で海水浴。子ども会のキャンプなど。
いつも父はリーダーシップをとり、段取りよく行事などをこなしていました。

私の学校のPTA役員などもしてくれました。
40歳になる頃には結婚式の仲人や司会役を良く頼まれて、母と二人で礼服を着て出掛けていたな~。


まとめてみると世話好きだったということかな?
好きではなかったけれども頼まれたらいやといえない性格だったとも考えられます。


また几帳面で、狭い家だったのにいつも整理整頓されていました。
亭主関白であることを誇りにしていた彼は自分で掃除こそしなかったけれども何か使い終わったら
必ず元の場所に戻していましたし、母や子どもたちにもそうする様に命じました。

彼の書く字はいつも力強く勢いがあって、でも決して乱れることなく、皆の羨望の的でした。
その当時は、学校などの配布物はまだガリ版刷りの時代で、父は私の幼稚園のお知らせなども
先生方に頼まれてガリ版の原稿を書くほどの達筆でした。

庭には父が作ったバラや菊やガーベラやキンセンカや・・・・季節季節の花が咲き誇り、
近所の人たちが見に来るほどでしたが、
その庭には雑草どころか石ころ一つ落ちていないと訪れる人たちを驚かせました。

山を歩けば山柿やツワブキを持ち帰り、釣りをすれば家族では食べ切れないほどの釣果、
30羽ほどの鳩の飼育、映画鑑賞に美術館めぐり、近所の人との碁、将棋、
酒にタバコにパチンコ、麻雀まで、本当に多趣味でした。


しかし、本当にその一つ一つを好きだったのかというと、そうでもないような気がします。


じっとしていると自分をもてあまし、落ち着かない気持ちになっていたのかもしれません。


ただ、本を読むことは本当に大好きで、父のカバンにはいつも文庫本が入っていました。
生まれた家が裕福であれが、きっと、もっともっと勉強したかったに違いありません。

家の中にいると家事は何もしない代わりに新聞や本などいつも活字をに目を向けていた姿が
思い起こされます。

私が分からないことやできないことがあると手取り足取り、分るまで、できるまでとことん
教えてくれました。私がもういいよと言っても父は決して諦めようとはしませんでした。
分るはず、できるはずと信じていてくれたのだと思います。

おんぶしたり、肩車をしてくれたり、山や海にも良く連れて行ってくれました。

自分が親にしてもらえなかったことを私の中で実現していたのかも知れません。


私は、残念なことに几帳面さは受け継ぐことはできませんでした。
気性というものは遺伝子の影響を強く受けます。
父に似ているといわれる私ですが几帳面の遺伝子は受け取っていなかったのですね。

でも、父の背中を見て育ったので、自分の身の回りを綺麗に、そして機能的に片付けしておこうと
する気持ちはあります。唯、父のようにいつもいつもそうすることはできないのです。
だから、家は徐々に散らかり、そしてまとめて片付けというスタイルです。

字も父に似せて書こうとして、良く似た字だといわれるようになりましたが、その力強さや勢いは
まねることができず、また、私の字はすぐに乱れてしまい、
・・・・字の上手・下手も遺伝子に影響されるといわれています。


私も人から頼まれたことはイヤと言えず、引き受けてしまいます。
ただ、そのエネルギーは、ほぼ仕事関係のことに集中しています。
町内会とかPTAとかいうものは行けば役回りを仰せつかりそうで、申し訳ないと思いつつも
仕事が忙しいことを理由にできるだけ避けてきました。

私の方が専門的な仕事をしていて、家でも仕事の準備や勉強を続けなければならないから
そうなるのだと言い訳しておきます。

父の手伝いをするうちに花を育てることも大好きになりました。
マンション生活の頃には観葉植物でいっぱいにしていました。これは環境によって自分がしたい事を
調整したのだと思います。

私も本を読み、美術館を巡り、山を歩きました。

親が子どもに向き合って、一緒に遊ぶということ、そして、いろいろなことを教え伝えていくと
いうことも父から習ったように自分の子育ての中で実践できたと思うし、
仕事の中でも訪れる子どもたちの可能性を信じ、とことん付き合えば何とかなると思っているのは
父のおかげかもしれません。


結婚後は、インドアの夫にも影響され、テレビによるスポーツ観戦を覚え、犬を飼い
(これは夫が親から引き継いだ文化)、散歩はしても山歩きをするようなことは無くなりました。
歌好きの夫に引き連れられ、カラオケにも行きました。そして夫は美術館に行くようになりました。

夫とは仕事の上で価値観を共有し、今でも仕事第一の生活を貫いています。


先月までのNHKの朝ドラ『マッサン』の主題歌として流れていた中島美由紀さんの
『麦の唄』の2番に次のような歌詞があります。


    空よ風よ聞かせてよ 私は誰に似ているだろう
    
    生まれた国 育つ国 愛する人の国・・・・




人は両方の親から引き継いだ遺伝子を持って生まれてきて、そして場所や時代の環境の中、
両方の親の背中を見ながら育ち、徐々に新たに出会う人々の影響も選択的に受けながら
(影響されたいものを選びながら)、そして新たに作る家族の中で互いが持ち寄ったものを
融合させながら生きていくのだと思います。

父から遺伝子をもらい、そして背中を見せてもらって育ち、
それを基礎にして今の私が存在していると思います。


それなのに感謝の気持ちを十分に伝えないままの別れになったのが本当に残念です。